私にとって、白い色は、祖母のチマチョゴリの色だ。
白いチマチョゴリの胸元に、真ん中に撫で付けた前髪、
首筋から、三つ編みされた長い髪が垂れている。
この写真が、法事の時に祭壇に飾られる祖母の姿だ。
私の記憶のある祖母よりも、ずっとずっと若い写真だ。
名前は、「李 平京」だったが、
日本名は、「金本 房江」といった。
「金本」は、父が大学を卒業する頃にもう一度改名されたらしく、
私が生まれた頃は、違う日本名になっていた。
「かねもと ふさえ」 日本語のひらがなでさえ自分の名前を書けなかった祖母。
片膝を立てて、スッカラ(スプーン)で、コムタンスープを食べる、
片言の日本語に、その「房江」という名前は不似合いだった。
私が生まれたときには、すでに祖父はいなかった。
広い家で、一人で寝る祖母のために、私はよく泊まらされた。
早くに寝息を立てる祖母の横で、
まだ、母が恋しい私は淋しくて淋しくて、一人で泣きながら寝入ることもよくあった。
ある夜、また一人で泊まることになった私は、淋しくて、
ラジオをつけてみた。
ラジオから、雑音と一緒に聞きなれた言葉が流れていた。
「おばあちゃんの言葉や!」
意味は全くわからなかったが、あわてて祖母を起こした。
「おばあちゃん、おばあちゃん、韓国語やで!韓国語やで!」
祖母は、何事があったのかとびっくりした顔で起き上がって、
ラジオに耳をすました。
「ホンマヤナ ホンマヤナ 」 そう言いながら、とっても嬉しそうな顔をした。
夜中に、韓国の放送が電波の加減で聴こえてきいたのだ。
その嬉しそうな顔が見たくて、私はそれから泊まるたびに、祖母にラジオを聴かせた。
祖母は、嬉しそうな顔をした後、時々、とっても淋しそうな目をした。
理由もわからないのに、その目に、いつも胸が苦しくなった。
その淋しそうな目の理由は、祖母が生きている間に知ることはなかった。
小さい頃の私は、おきゃんで韓国舞踊が大好きな子供だった。
七色のセットンチョゴリを着せた私を、人前で躍らせるのが祖母の楽しみだったようだ。
白いチマチョゴリを着た祖母が、嬉しそうに、韓国の打楽器長鼓の音に合わせて踊っていたのを、
今も覚えている。
日本語が下手で、無口だった祖母の満面の笑みが見れる幸せな時間だった。
私は、一度も、祖母に「ハンメ(おばあちゃん)」と呼べず、
祖母は、一度も、私の本名を呼ぶことはなかった。
74歳で亡くなったその亡骸には、綺麗に死化粧がほどこされ、
白いチマチョゴリが着せられていた。
祖母の透けるような白い肌に、白いチマチョゴリは尊いものに見えた。
白は、すべてを浄化する色。
祖母は、済州島から、20歳の時に日本へ渡ってきて、
「房江」と言う名前を使った。
それでも、事あるごとに、白いチマチョゴリを着続けた。
この人は、韓国人でありたいと考える前に、韓国人だったんだ。
祖母は、この世の出来事を浄化して、
あの白いチマチョゴリと共に昇天した。
もし、天国に名札があるとしたら、
字が書けない祖母の胸には、神様が「李 平京」と書いてくれてるに違いない。
名札のついた白いチマチョゴリは、
パラム(風)になって、済州島の空の上で、長鼓の音に合わせて舞っているのかな。
「おばあちゃん、私は、セ パラム(七色の風)になりたい。」
ちっちゃな頃、白いチマチョゴリとセットンチョゴリで踊っていた頃のように。
願いながら見上げた空は、済州島の空に繋がってるんだね。
時が変わっても、風の色は変わらない。
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